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⑳庚申堂、般若院  久成寺、多門院

 上の絵は和歌川の東側、新町南部の約200年前の風景です。「もくづ川」(和歌川)には葦原がみえ、燃料となる薪や柴などを運ぶ舟が行き交っています。背景は、岩橋千塚の古墳が立地する山々です。

 岡口門から東へ進み、大橋を渡って右に曲がると、西国第2番札所に至る「紀三井寺道」(近世熊野街道)になります。和歌川沿いの「藤六(とうろく)」町(現在の和歌山市新留丁)は、元和8年(1622)に中野島村(同市中之島)の江島藤六という人が、和歌山城南の弁財天山の土石によって埋め立て造成した新地で、築屋敷ともいいました。その南側には「一りつか」がみえます。一里塚は、初め「多門院」のある一里山町にありましたが、藤六町ができた後、ここへ移されました。

 岡口門からここまで4㌔もあったかなと思われた方も多いことでしょう。その距離は約1・5㌔しかありません。この一里塚は四箇郷一里塚(国指定史跡)から1里で、熊野への出発点として江戸時代初期に設けられたようです。ここから田辺までは20里(約80㌔)、新宮までは40里あります。

 藤六町と一里塚の間には木戸がみえます。木戸は夜になると閉められ、道の通行が制限されました。その南側には「庚申」と記された天台宗の功徳寺(くどくじ)がみえます。同寺は昭和8年(1933)に焼失しましたが、太田城の大門と伝えられる山門は焼け残り、橋向丁の浄土宗「大立寺」に再移築され、現在も見ることができます。(和歌山市立博物館総括学芸員 額田雅裕)
画=西村中和、彩色=芝田浩子 

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 『城下町の風景』は水曜号掲載。次回は1月28日号です。

(ニュース和歌山2015年1月14日号掲載)