名草戸畔

2015092610nagusa

 名草山の周辺には、明治以前まで山を取り囲むように「中言神社」が15社も鎮座していました。祭神の名草姫・名草彦は、男女一対を祖先神として祀る「ヒメヒコ制」を思わせることから、名草戸畔も含む、土地の祖先神と考えるのが自然だと思います。

 中世以降、名草山周辺の集落は「日前宮」の神領だったので、各地の「中言神社」は地域の住民を束ねる社会的な役割も果たしていたことと思います。しかし、祭神が素朴なヒメヒコ神であることと、名草山を取り囲むようにたくさんの神社が建てられたことは重要です。南方熊楠によると、明治の神社合祀令以前、紀伊半島に小さな祠や神社が無数に存在していたのは、車や自転車もない時代のこと、歩いていける場所の産土神にお参りして、日々の暮らしの安全を祈るためでした。名草でも同じように、いつでもお参りできるよう集落ごとに「中言神社」が勧請されていったのかもしれません。人々は遠い昔の祖先神や名草山の精霊に感謝して日々暮らしていたのではないでしょうか。

 時代は下り、戦国時代になると、名草山の中腹に建つ「紀三井寺」に、次の物語が残されています。

 「紀三井寺」の山にある観音堂の神官の娘、春子は、恋人の平太夫が紀の川の戦乱で瀕死の重傷を追ったのを知り嘆き悲しみました。そして春子は観音堂に籠もって三日三晩一心不乱に祈り、白狐に変化して秀吉の元に飛び込んでいきました。その後、春子は一枚の書状を持ってお堂に倒れていました。書状には「紀三井寺だけは攻撃しない」という一文が書かれていました。

 春子は、恋人が深い傷を追った悲しみで行動をおこしたのですが、結果として、名草山と「紀三井寺」を守ることになりました。春子はまるで、戦国時代に蘇った名草戸畔か名草姫のようです。

 今も「紀三井寺」の本堂の上に「春子稲荷」の祠がひっそりとたたずんでいます。みなさんも、ぜひ、遠い昔の名草山に思いを馳せて、「春子稲荷」を訪れてみてください。名草戸畔伝承は、時代を超えて、今も息づいているのです。 (今回で終了します)

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 名草戸畔伝承をもとにした劇団ZEROの公演「名草姫」が10月10日(土)午後1時と5時、和歌の浦アートキューブで開かれます。1000円。チケットは和歌山市民会館などで販売中。また、なかひらさんの著書『名草戸畔〜古代紀国の女王伝説』(1800円)も好評発売中です。

(ニュース和歌山2015年9月26日号掲載)