徳川吉宗は、貞享元年(一六八四)十月二十一日、紀州藩二代藩主徳川光貞(みつさだ)の四男として和歌山城下吹上の御用屋敷で生まれました。幼名を源六といい、のちに新之助、頼方、藩主になると吉宗と名を改めました。身長182㌢余、色黒で相撲など武道を得意としましたが、性格は柔和だったといいます。
御用屋敷地は南北約五十七㍍、東西約三十八㍍で六百坪ありました。天和年間(一六八一〜八四)の和歌山城下図をみると、そこには彼の誕生前にもかかわらず、「御誕生ヤシキ」と記されています。『南紀徳川史』によれば、それは寛文七年(一六六七)に光貞の二男次郎吉が誕生した前年、そこが御用屋敷として召し上げられたからと考えられます。
藩主の子は通常、城内か江戸藩邸で生まれました。しかし、生母お由利の方は紀州藩士巨勢(こせ)六左衛門の娘とされていますが、当時、側室ではなかったので城下で出産したようです。
吉宗は、兄たちの相次ぐ死により藩主になると、ひっ迫していた藩財政を立て直し、徳川宗家の血筋が絶え将軍になると、享保の改革という幕政改革を断行し、江戸幕府中興の英主と讃えられています。
吉宗のサクセスストーリーは、ここから始まったのです。(和歌山市立博物館館長 額田雅裕)
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徳川吉宗の将軍就任三百年にあたり、ゆかりの場所、文化財を毎週土曜号で紹介します。
(ニュース和歌山2016年9月3日号掲載)