岡山の時鐘堂は、紀州藩五代藩主徳川吉宗が城下の人たちに時を知らせるため建てたもので、正徳二年(一七一二)九月一日に鐘をつき始めました。約二時間ごとに一日十二回時刻を知らせるとともに、非常時には鐘を打ち鳴らして危険を知らせました。

 建物は間口・奥行とも約六㍍、高さ八㍍余の二階2016101501_okayama建てで、屋根は寄棟造の本瓦葺、二階大梁の中心から鐘を吊り下げています。鐘は大坂夏の陣のとき、片桐且元(かつもと)方の大砲だったものを、二代藩主光貞が粉河(紀の川市)の鋳物師に命じ改鋳したものといわれます。青銅製の鐘は高さ百七十㌢、口径九十七㌢あり、東西両方からつくことができます。

 鐘つきは明治以降も続けられましたが、時計の普及にともない、時報は大正十年(一九二一)三月末に廃止され、空砲による号砲に変わりました。正午を知らせる時報、午砲はその音から「お昼のドン」と呼ばれましたが、その後、サイレンになりました。

 三十年位前まで、土曜日は半ドンといって休日ではなく、お昼まで仕事や授業がありました。学校が終わると、お昼から部活や友だちと遊んだりしたのを思い出します。  岡山の時鐘堂は、空襲の被害を受けず、当時のまま残っています。(和歌山市立博物館館長 額田雅裕)

(ニュース和歌山2016年10月15日号掲載)