藩主、城下町で暮らす
元禄十年(一六九七)四月、新之助(吉宗)は、江戸紀州藩邸を訪れた五代将軍綱吉から、越前国(福井県)葛野(かずらの)藩三万石を頂き、藩主となりました。これを機に名を頼方と改めますが、現地へは行かず、帰国して、伝法橋南詰東側の水野重孟(しげたけ)の屋敷で過ごしました。
同十三年の城下町絵図をみると、伝法橋南詰西側、現在の市民会館の所に「主税頭(ちからのかみ=吉宗)様御屋敷」とあり、そこに住んでいたことが分かります。同十五年には湊御屋敷を賜りました。当時の城下町絵図には水野重孟屋敷があった場所に「湊御やしき」とみえます。そこは商家が建ち並ぶ町人町、湊片原(のち昌平河岸)の北側にあたり、夏には夜店も出る賑やかな所で、彼も夕涼みに出かけたことでしょう。
宝永二年(一七〇五)十月六日、彼は五代紀州藩主となり城内へ移り、吉宗と改名します。葛野藩主時代の十四歳から二十二歳まで、多感な青年期を繁華な城下町で暮らしたことは、彼の性格や後の施策に大きな影響を与えたと思われます。
吉宗は正徳三年(一七一三)、その屋敷跡に儒教教育のための講釈所を開設しました。その後、そこは十代藩主によって増改築され、学習館となります。(和歌山市立博物館館長 額田雅裕)
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徳川吉宗の将軍就任三百年にあたり、ゆかりの場所、文化財を毎週土曜号で紹介します。