浅野氏時代の和歌山城では、大堀(仮称)も見逃せません。現在の二ノ丸広場に、領主浅野氏の屋敷があり、池のように広い大堀は、その西側にありました(6月3日号掲載「戦の場から優雅な居城へ」の図参照)が、次代徳川氏の入城時に、一部を埋め立てたので、現在は当時の様子を見ることはできません。

 しかし、大奥跡と西ノ丸庭園一帯に、岡口門前の広い水堀(最大幅73㍍)を思い浮かべてください。浅野時代の大堀が見えてくると思います。すでに大奥跡の発掘調査で、刻印入りの石垣など浅野時代の大堀の東端が確認されています。

  堀幅は、武器の発達によって広がって行きました。最初は人が飛び越えられない幅で良かったのですが、やがて弓矢の届かない幅に広がり、最終的には鉄砲の射程距離を考えた堀幅になっていったのです。

 堀と言えば水堀を思い浮かべるでしょうが、水を張らない堀もありました。空(から)堀と言います。山の上に築かれた城堀は、尾根続きの峰を遮断する堀切。山腹の横移動を防ぐために斜面を掘った竪(たて)堀。これが戦国時代になると山腹を周回する横堀が造られるようになります。

 空堀の場合、武器を持って、堀底に下りたのち再び石垣を登らないと城内に近づけません。それだけ時間も体力も要りますが、水堀なら小舟で容易に渡ることができます。しかも、武器を積んで、たやすく城内に近づけます。

 そこでこんな妙案が考えられました。夜、何者かが水堀を泳いで、あるいは、船で侵入をはかろうとすれば、波紋が広がります。その波紋をいち早く見つけられる位置に、見張りを置いたというのです。昼間はともかく、夜は街灯のない真っ暗な時代ですから、こんな知恵も考えられました。水堀に水鳥や鯉を飼育して、夜の番人になってもらうのです。異変があれば、水鳥は騒ぎ声を、鯉は跳ねて水音を発します。

 真っ暗な夜、波紋を探すより、はるかに確実でしょうが、その効果はどうだったのでしょうか、記録にありません。

(ニュース和歌山/2017年8月19日更新)