豊臣秀吉が紀州攻めを終えた時、和歌浦で歌を詠んだ(4月1日号掲載「紀州平定後反秀吉にらむ」参照)ように、徳川頼宣(よりのぶ)も和歌浦で詠んでいます。

 「和歌のうらに 光をそふる 玉津島 はしなき道の 末も頼もし 頼宣」

 1619(元和5)年、家康の十男頼宣は紀伊国領主として和歌山城に入ります。その決意が歌に詠まれているようです。

 二代将軍秀忠は、大坂城に近く、海上交通の要所として重要な位置にある和歌山の地を抑えるため、豊臣派の浅野長晟(ながあきら)を和歌山から離れた安芸・備後(広島県)への国替えを行いました。そのうえで三男忠長に頼宣の領地だった駿河・遠江(静岡県)を与え、頼宣を5万5千石の加増で、紀伊国へ国替えしたのです。

 家康の溺愛を受けた地であり、わが領地であった駿河から、遠く離れた地への国替えを命じられた頼宣には、不満、不安もあるだろうと安藤・水野両氏を付家老(補佐役)として同行させました。入城後の頼宣は、表坂に接する松ノ丸櫓から、東方に望める龍門山(紀州富士)を富士山に見立て、ふるさとを懐かしんだと伝わります。

頼宣 城域を大幅拡大

  それから2年後、和歌山城の改築費用として、秀忠から銀2千貫(現在の30数億円)が与えられ、和歌山城は虎伏山の南西麓に南ノ丸と砂ノ丸を増築し、浅野氏屋敷地の西側を埋め立てて二ノ丸を配置するなどの拡張工事が進められました。さらに北方に重臣屋敷などを集めた三ノ丸とその北に広がる城下町の入口に「本町門(北大手門)」を設けました。南方は、寺町と新堀川(南外堀)の整備を行って、城域はこれまでの約3倍に広がり、頼宣の新しいふるさとが誕生します。

   しかし、紀伊徳川家55万5千石の城と城下町の中心である虎伏山には、依然として浅野氏の黒い天守が(7月1日号掲載「戦国の黒い天守」の図参照)そびえていました。

写真=水禽園は、頼宣が拡張した南ノ丸跡

 訂正 8月5日号掲載の当連載11「石垣はどこから来た?」4段16行目の「花崗片岩」は「花崗斑岩」に訂正します。

 

(ニュース和歌山/2017年9月2日更新)