『和歌山市 楠見郷土誌』によると、明治八、九年ごろより土橋市次郎、楠見太郎左衛門が官許を得て、粟から対岸の嘉家作丁まで橋を架設し、通行料二厘の賃取橋を経営、これが当地への架橋の始まりでした。

 この橋は明治二十年ごろまで続きましたが、廃業し渡船が復活。のちに南海鉄道が紀の川橋梁を架設する際の資材運搬を目的に仮橋を架設し、南海橋と命名されました。

 紀の川の増水により流出・架橋を繰り返し、架橋位置も上下流に少し移動するなどしたようですが、この写真は昭和三十七年の架け替え以前の様子を伝えるものと思われます。

 紀国堂店主、溝端佳則さんの古写真を紹介します。

(ニュース和歌山/2021年12月11日更新)