今回は古墳そのものではなく、そこに葬られた人々、そして築いたのがどのような人物であったのかを紹介します。
古墳時代、多くの人々は農業や漁業を営んでおり、現在の和歌山市域では主に、水田稲作が行われていました。では、大きな古墳を築いた有力者たちはどうしていたのでしょうか?
稲作には水がいりますが、範囲が広大になると紀の川から取水する大きな水路が必要です。そのためには、作業にあたる多くの人々を集め、測量や土木技術を持った人を連れて来なければいけません。さらに、水の管理も不可欠です。水を巡って争いも起きたでしょう。また、毎年の豊作を祝い、神にささげるような祭祀(さいし)を代表して執り行い、その上、対外的な交渉なども担ったと思われます。このように人々が稲作を進めるための調整や、様々な差配を行った人物こそが、古墳に葬られた有力者だったと考えられます。
和歌山平野には紀の川からの水路が張り巡らされ、現在も使われています。これは「宮井用水」と呼ばれ、文献史料に古くは「名草溝」として登場し、「紀氏」がこの溝を管理したと言われています。同市鳴神の音浦遺跡発掘調査では、岩盤を掘りぬいた幅6㍍もある古墳時代の水路跡が発見されました。現在の宮井用水に沿い、名草溝の原型とされています。
音浦遺跡の隣にある花山丘陵には、この溝と前後する時期に岩橋千塚古墳群で最初の前方後円墳となる花山8号墳(全長約52㍍)が築かれました。このことから、同古墳群に葬られた初期の有力者たちは、この名草溝を築いた「紀氏」だったのではないかと推察できます。
紀伊風土記の丘では特別展「紀氏、大地を開く~宮井用水と耕地開発」を12月4日まで開催中です。その歴史を学びに、ぜひ足をお運びください。(和歌山県立紀伊風土記の丘学芸員、田中元浩)
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『わかやま古墳ガイド』が主要書店で発売中。1760円。
(ニュース和歌山/2022年11月26日更新)