有田川には宮原南村(有田市宮原町新町)より中番村(同市糸我町中番)への渡し船がありました。左の絵は、江戸時代後期の宮原の渡し場付近の風景です。有田川は高野山に源を発し、紀伊水道に注ぐ二級河川です。
絵図をみると、川岸に一人、船に乗り遅れた人が頭に手を当てているようです。船頭は船尾に乗り、長い櫓がまだ川岸に届くくらいの距離で、気づかないはずはないのですが、待ってくれません。
船には西国巡礼や武士、荷物担ぎの人、日傘をさす女性ら十人以上が乗っており、定員オーバーだったのかもしれません。対岸の渡し場には、すでに八人が舟の戻りを待っていて、ほかに数人が河原を歩いて渡し場に向かっています。
宮原の渡し場は現在の有田川に架かる宮原橋北詰の東側にあたり、天神社の横に「渡し場跡」の碑が建っています。その手前、国道の北側には札場の地蔵があり、有田川の増水によって宮原の渡しが中止になると、そこに川止めの札がたてられたといいます。
熊野古道は、ここで有田川を渡ると、中番村から糸我山を越えて醤油発祥の地、湯浅へ向かいます。
画=岩瀬広隆、彩色=芝田浩子
(関西大学非常勤講師 額田雅裕)