絵は、天保九年から嘉永四年(一八三八~五一)の湯浅の中心街をえがいた風景です。
中央の交差点付近には旅籠や商店が建ち、四つ角には天保九年にたてられた立石の道標(湯浅町道町)がみえます。手前の通りは熊野古道で、右側が和歌山・紀三井寺、左側が熊野・田辺になります。通りには武士、親子連れ、ふり売り商人、西国巡礼、駕籠かき、馬で米俵を運ぶ人などが通行し賑わっています。
右上には多くの参拝者が集う深専寺(同)がえがかれています。本堂をはじめ伽藍配置は今とほぼ同じですが、安政南海地震の前なので、山門前には安政元(一八五四)年の地震津波の教訓を記した石碑「大地震津波心得の記」はまだありませんでした。
同地震の津波は、湯浅や広で最大五㍍の波高があり、熊野古道沿いの勝楽寺(同町別所)付近まで到達したといわれます。稲むらの火で有名な濱口梧陵が私財を投げうって建設した広村堤防(広川町広続、国指定史跡)が完成するのはその五年後で、広と湯浅の街はこの津波によって多くの死者や流失家屋を出すなど大きな被害を受けました。
画=岩瀬広隆、彩色=芝田浩子
(関西大学非常勤講師 額田雅裕)