男山窯は、偕楽園窯、瑞芝窯と並んで近世紀州の三大窯といわれます。その男山陶器場は、熊野古道から約一㌔西に入った男山(五十二㍍)の南斜面にありました。
紀州藩は、江戸時代後期、殖産興業の一環として国産陶磁器の育成に力を注ぎ、藩窯を開こうとしました。文政十(一八二七)年、藩は諸施設を建設して陶器場を開設し、当初は運営資金も藩が出していたようです。
絵は、その陶器場の陶器製作の様子をえがいています。下方では杵と臼で陶石をつき砕き、足で陶土を踏んでねっています。
中央では陶工が横に並びロクロを使って陶器を成形し、職人が素焼きにするため半製品をまとめて運んでいます。その横には刀を腰に差した藩の御仕入方役人が見回りをしているようです。男山陶器場は御用窯の性格が強く、御用の陶磁器も製作していました。
安政三(一八五六)年、陶器場は崎山利兵衛に払い下げられ、独立採算で経営が行われました。しかし、彼の没後、明治十一(一八七八)年に廃窯となり、跡地はみかん畑等に開墾されました。現在は広川町男山焼会館が建っています。
画=岩瀬広隆、彩色=芝田浩子
(関西大学非常勤講師 額田雅裕)
(ニュース和歌山/2024年2月24日更新)