絵は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀る廣八幡宮の江戸時代後期の風景です。道を挟んだ左側には古義真言宗の「明王院」があります。絵図右下の「楼門」から「拝殿」、「本社」(本殿)が直線的に並び、本殿の左右に「末社」(高良社・若宮社)が建っています。安政の南海地震の時、濱口梧陵は稲むらに火を放ち、村人をここへ避難誘導したといいます。

 廣八幡宮の北東一㌔㍍余には熊野古道の久米崎王子跡があります。同王子は、江戸時代に初代紀州藩主徳川頼宜によって社殿が再興されましたが、明治期に湯浅の顯國神社に合祀されました。現在は、国道四二号沿いの跡地に「久米崎王子社趾」の石碑が建っています。

 津兼(井関)王子跡は、久米崎王子の二㌔㍍余南、広川インターの料金所近くに「津兼王子跡」の石碑があります。さらに一㌔㍍余南の河瀬王子は、明治期に河瀬王子神社となりました。しかし、明治四二(一九〇九)年、津兼王子とともに津木八幡神社に合祀されました。両王子の間、路村状の井関集落には、かつて旅籠が多く建っていました。河瀬王子跡には巨石や槇・檜の大木が森のように残っています。

画=岩瀬広隆、彩色=芝田浩子

(関西大学非常勤講師 額田雅裕)