絵は、江戸時代後期の「丸山」(亀山)と南麓の「子安社」(湯川神社)付近の風景です。
亀山(一二一㍍)は、山体が丸く、亀の甲羅のような形をしています。山頂には室町時代初めに豪族湯河氏が山城、亀山城を築きました。
天正十三(一五八五)年、秀吉の紀州攻めの時、湯河直春は秀吉に対して激しく抵抗したのち、居城に火をかけて敗走しました。その後、両者は和睦しますが、直春は翌年に死去、毒殺されたともいわれます。絵図の山頂部に城はなく、「城跡」と記されています。今でも亀山城の土塁はほぼ完全に残っています。
亀山城の麓には湯河氏の居館、小松原館がありました。絵図中央の右側に「屋敷跡」とあるのがそれで、「子安社」は館跡の一角に祀られた神社です。
それらの右には連歌を嗜んだ湯河政春の建てた「歌仙堂跡」があります。政春は、宗祇を招いて歌会を催しました。
小松原館は発掘調査によって、約二百㍍四方の広大な敷地に瓦を用いた建物と庭園があり、周囲に堀を巡らせていたと推定されています。「子安社」手前の池は、今もそのまま残っています。
画=岩瀬広隆、彩色=芝田浩子
(関西大学非常勤講師 額田雅裕)
(ニュース和歌山/2024年6月8日更新)