日高川は、護摩壇山(一三七二㍍)に源を発し、紀伊山地内を蛇行しながらほぼ西流し、紀伊水道に注ぐ全長一二七㌔㍍の河川です。

 熊野古道は小松原から日高川沿いの出島にでて岩内に渡ったと推定され、岩内の河川敷に岩内王子があったとされています。同王子は焼芝王子ともいい、岩内コミュニティー館(御坊市岩内)の敷地内に「焼芝王子神社旧跡」の石碑が建っています。

 同王子は日高川の河道変遷によってしばしば流失し、その位置は移動しましたが、明治四一(一九〇八)年、熊野神社(同市熊野)に合祀されました。

 絵は、江戸時代後期、日高川左岸の天田の渡し場から対岸の日高「御坊」や「薗八幡」(小竹八幡神社)を眺めた風景です。

 江戸時代には渡河点が少し下流の名屋浦(同市名屋)─北塩屋の天田村(同市天田)へ変わりました。明治九(一八七六)年、その天田の渡し付近に天田橋が架けられました。

 絵図背景の山々は、有田と日高の郡境の白馬山脈で、左上の日高川河口には、江戸時代の海運を担った日高廻船の船が帆を下ろしています。

画=岩瀬広隆、彩色=芝田浩子

(関西大学非常勤講師 額田雅裕)