那賀地方に残る米国移民の歴史に光があたり始めた。2年前から那賀移民史懇話会が独自に史料を集め、2月にはこれまでの調査成果を発表するパネル展を計画。全国で6番目に多い移民を出した和歌山は、カナダで鮭漁をした美浜町三尾地区などが有名だが、もう一つの移民史が明かされようとしている。同会の梅田律子事務局長は「那賀地方は海外雄飛を勧める先人、キリスト教の普及による米国文化の吸収など移民を推進する背景があった。史実を集め、歴史の実像に迫りたい」と話している。
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 明治から昭和初期にかけて盛んだった移民。那賀地方は県内における米国移民発祥の地だ。他地域にさきがけ、1872年に池田村(現紀の川市)の伊達多仲が牧畜研究のために渡米したのが始まりで、帰国後に地元で外国事情を紹介。同村を中心に1890年から3年間で158人が渡った。また、同村の本多和一郎は慶應義塾で福沢諭吉に学び、私塾の共修学舎を故郷に開き、渡米相談所を設けた。同様の私塾は那賀地方に7ヵ所でき、欧米の学問や技術を伝えた。

 那賀地方の歴史を研究する岩鶴敏治さんは「明治維新を経て、私塾で学んだ青年たちが時代を拓く見識を得ようとする気運が高かった。紀の川平野が広がる穀倉地帯で、経済力のある家が多いため、那賀地方の初期の移民は仕事目的ではなく、学問を志した人が多かった」とみる。

 梅田さんの祖父、寅之助さんも同村から移民。1899年に渡米し、日本美術商や農業を経て1921年に帰国した。梅田さんが幼いころに他界し、直接経験を聞くことはなかったが、2007年に祖父の身分証や写真が見つかった。

 それらを紀の川市報で紹介すると、「うちにもある」と史料が寄せられ、市教委が14年に展示会を開催。移民に関する書籍や証言、文献がさらに集まり、約30人で懇話会を立ち上げた。

 同会は、移民に関する情報収集と整理を開始。文献に残る住所から子孫を訪ね、証言や生活道具、絵はがきなどの遺物を集めている。

 この中から分かってきたのは、移民とキリスト教の関係の深さだ。明治初期、多くの宣教師が日本を訪れ、和歌山ではヘール兄弟が布教した。本多も洗礼を受け、自宅を那賀教会にし、渡米相談所でキリスト教の普及や英語教育を行った。粉河に私塾、猛山学校を立ち上げた児玉仲児も教会を開き、弟の謇吉(けんきち)はヘール師の影響を受けて渡米し、帰国後は移民を郷土の人々に勧め、手続きや働き先を紹介した。

 和歌山大学紀州経済史文化史研究所の東悦子所長は「教会は渡米する人にとって異文化適応の第一歩になった。渡航先の教会も、日本人の移民に対し職探しなどの支援をしていた。那賀地方の移民は送る側、受ける側の両方で、教会が重要な役割を果たした」と話す。

 展示会は収集した遺物を撮影した写真35点に、那賀の移民史に大きく貢献した人物の歩み、移民の生活がうかがえる道具や史料を紹介したパネル約30枚を並べる。梅田さんは「移民の子孫は既に5世、6世となり、記憶が薄れている。特に庶民の史料は時代が近すぎて無用なものとして処分されがち。活動を続け、事実をより明確にしていきたい」と描いている。

 展示会は2日(火)~16日(火)、同市西大井の打田生涯学習センター。期間中の土日、午後2時から懇話会が解説。

写真=梅田さん宅には預かった史料がたくさん

(ニュース和歌山2016年1月23日号掲載)