第二次世界大戦の終戦間際、米軍との本土決戦を見越した日本軍の陣地遺構が和歌山市沿岸部に加え内陸部にも存在することを、和歌山城郭調査研究会の森﨑順臣(まさみ)さん(72)が現地で調べた。陸軍144師団(護阪部隊)が構築し、建設中だった紀の川市桃山町の安楽川飛行場制圧にかかる米軍をねらうためと見られる場所も残る。同部隊にいた和歌山市の野村晴一さん(90)は、貴志地区に掘ったトンネル調査を続ける。証言者が少なくなる中、急ピッチで進められた陣地構築の跡を探る動きは今も続く。

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構築跡 現地調査

 森﨑さんは昨年、防衛省防衛研究所の陣地図から、和歌浦の砲台跡や秋葉山の坑道の存在を明らかにした。和歌浦から二里ヶ浜に至る砂浜に上陸する米軍との地上戦を想定した陣地。紀三井寺、冬野、和佐など9地区でも砲台や塹壕(ざんごう)掘削跡を見つけ、内陸部で構築が進んでいたことを確認した。

 紀伊風土記の丘がある岩橋、鳴神地区の大日山から大谷山に至る道沿いに、砲台2ヵ所と着弾観測所、数十㍍に及ぶ塹壕が残る。山肌を削り地面を掘ったもので、穴か防空壕にも見えるが、森﨑さんは「軍が設置したとみると理にかなう」。

 証言もある。大阪府立住吉中学2年だった大阪市の磯高材(たかき)さん(87)は、神前の福飯ヶ峯で壕を掘った。大日山に配置された別グループが「横穴古墳を陣地に利用する目的で、中をきれいにした」と話したのを覚えている。

 

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東進米軍ねらう

 陣地遺構の多くは、沿岸部、内陸部問わず、海からの上陸を想定して西側を向く。これに対し、高積山の頂上に残る3㍍×5㍍ほどの掘削跡は北を向く。『太平洋戦争と和歌山県』(川合功一著)に護阪部隊が高積山に配置されたと記載が残り、軍が駐留していたことが分かる。また、『和歌山市史』では上陸軍が飛行場を設営する危険性を考え、紀の川南岸を主戦場と想定したとされ、高積山東部にある御殿山の大規模陣地図からは、北向きに大砲を据える計画が見てとれる。

 「米軍は上陸すれば飛行場を手に入れ、空爆拠点にするのが常」と森﨑さん。陸軍が紀の川近くの桃畑に整備を進めていた安楽川の飛行場を、米軍が制圧しようと紀の川沿いを東へ移動してくるとみて、「南側の高積山や御殿山からねらうため、北向きに陣地を造ろうとした」と推察する。

 

大阪へ峠下掘削

 同じころ、和歌山市北部では軍が孝子峠付近を南北にトンネルで貫こうとしていた。大阪へ向かう米軍の背後から不意打ちする計画で、護阪部隊の野村さんら数百人が複数のトンネル掘削に当たった。1本貫通と聞いたが、直後に和歌山大空襲があり、その後、気にかけることはなかった。

 所在が気になりだしたのは2010年。拠点だった貴志小学校周辺を調査するが、明らかにできていない。野村さんは「周辺が竹薮に覆われているが、1つでも見つけたい」と力を込める。大谷地区の畑山に東西200㍍のトンネルが2本掘られたと証言があるが、こちらも所在は確認できない。

 野村さんは「トンネルの場所を知る人や、作業に当たった人がいれば連絡がほしい。戦争の記憶を何とか次の世代に伝えたい」と協力を呼びかける。野村さん(073・433・1135)。

写真上=紀伊風土記の丘で確認した着弾観測所遺構に立つ森﨑さん
同下=確認できた陣地遺構