今年、戦後の再建から60年を迎えた和歌山城天守閣。同城の研究は戦国〜江戸期がメーンだったが、戦後再建時の動きに焦点が当たり始めている。和歌山市和歌山城整備企画課の大山僚介学芸員は過去の市議会議事録や新聞記事から経緯を拾い、実態を探る。現在、天守閣の耐震補強に向け木造再建論がある中、60数年前に木造派、鉄筋派の対立を経て外観完全復元へつながった可能性が見えてきた。
再建60年 進む戦後研究〜木造、鉄筋派対立に意味
和歌山城天守閣は1945年7月9日、市を襲った空襲で焼失した。55年に市は再建に乗り出し、寄付中心での再建を掲げた。設計は東京工業大学の藤岡通夫教授が担当、58年に鉄筋3階建てで内部が資料展示室となった天守閣が完成した。ただ、この経緯を記した書籍はあるが、詳しい研究はなく、再建60年に合わせ、大山学芸員が着手した。議事録や新聞記事から、再建を進めた行政の動きや議論をたどっている。
「反対論はあったものの再建は順調だったと思われがちですが、相当な紆余曲折を経ています」と大山学芸員は語る。49年の議会答弁で髙垣善一市長は「天守閣は封建的で、民主主義の時代に合わない」「建築史的、観光的立場から再建を」など意見があるとし、再建に慎重な姿勢だった。55年に調査費を計上、和歌山城再建期成同盟会結成を図ったが、財界は賛成論と反対論に分かれ、協力的ではなかった。
しかし、56年に市は再建事務局を発足。和歌山城再建期成会も組織され、寄付集めは本格化した。翌年には起工、58年10月に竣工と短期間で工事は一気に進んだ。大山学芸員は「県の補助は得られるかどうか不透明で、寄付も集まるか分からない。予算的に見ると、かなりの見切り発車だったと言えます」。
鉄筋で中は資料展示室ながら、外観は旧天守閣に忠実に再現された経緯も見えてきた。竣工時に市は地元新聞で、天守閣は封建時代の目的は失われ、「郷土の象徴」「心の故郷」「観光施設」としての意義を持つと主張。天守閣イコール封建的との批判をかわすために「文化的、現代的」施設であることを強調した。
一方、当時の市文化財保護委員会で木造派、鉄筋派の対立があった。資料保存のため不燃の鉄筋にする市の方針に対して、郷土史家、田中敬忠は「日本城郭建築の優美さの点からみて芸術性の高い木造」を訴えた。最終的には、木材の調達のめどが立たず、内部を鉄筋にし、木材を可能な限り使って建てることに落ち着いた。
大山学芸員は「多くの天守閣が空襲で焼け、全国的に鉄筋での再建が多く、また『鉄筋が現代的』との考えが根強かった」。設計の藤岡教授は戦前に調査した和歌山城天守閣の資料を数多く持っており、まず木造で設計し、それを鉄筋に置き換え再設計した。「この設計上のこだわりが大きいのですが、木造、鉄筋の対立が外観の忠実な再現を後押ししたと思う。藤岡さん設計の他城では地元の要望で史実にない見晴らし台を作った例があるんです」。和歌山はそうならず、外観復元した城としては広島城に続き、全国で2番目に早い例となった。
このほか、自治会単位で目標額が設定された寄付活動の実態、住宅難から「パンか、郷愁か」と再建反対論を市に突きつけた野党と、それをはねのけた市長の攻防など戦後再建に論点は多い。大山学芸員は「各地の天守再建の研究は全国的にもこれからです。反対や議論の対立、様々な思いや歴史を背負い、天守は立っていると知ってほしい。いずれ関連資料を見てもらえる機会をつくりたい」と話している。
写真=再建工事中の和歌山城天守閣(和歌山市和歌山城整備企画課蔵)
(ニュース和歌山/2018年8月25日更新)