1945年7月9日深夜、アメリカ軍のB29爆撃機が和歌山市上空に現れ、10日未明にかけ、焼夷弾(しょういだん)の雨を降らせた。絶え間なく襲いかかる波状攻撃で、和歌山城は焼け落ち、市街地の7割が一夜にして焼け野原になった。死者は1400人を超え、市内の2万7402戸が全焼した。あれから70年、空襲体験者の高齢化で記憶の風化が懸念される。「子や孫に同じ体験はさせない」。70年の節目を迎えた今年、大空襲から生き延びた2人が、未来へ記憶を伝える。 (ニュース和歌山本紙7月4日号2、3面掲載)
旧県庁跡の奇跡 平和願い語り継ぐ 平井章夫さん(83)
和歌山大空襲の死者のうち、5割強の748人が命を落とした旧県庁跡(現在の汀公園一帯)で奇跡的に助かった少年がいる。当時、13歳だった平井章夫さん(83)だ。「二度と戦争を起こさせない」。若い世代へ伝えようと、1987年に「7・9和歌山大空襲を語り継ぐ会」の発足にかかわり、平和を訴える芝居や合唱を行ってきた。70年の時を経て、今なお鮮明に残る記憶「旧県庁跡の奇跡」を7月9日(木)、和歌山市九番丁の市教育会館で語る。
深夜0時近く、B29が轟音(ごうおん)をとどろかせ、同市上空に現れ、次第に市街地の和歌山城周辺を襲い始めた。当時、八番丁に住んでおり、「もう家にいられない」と旧県庁跡へ駆けた。約4000坪の空き地は避難所になっていた。市内至る所で火柱が立ち、火に追われ何百人、何千人もが逃げてきた。
突然、すーっと涼しい風が吹いた。「気持ちいいな」と思った瞬間、周辺の家が火を吹き、高さ6000㍍に及ぶ火の突風が襲った。炎の竜巻のように渦を巻き、トタンや屋根瓦、石、人をも巻き上げた。「目も開けられず、身体を焼きつける火の粉をはたくのに必死だった。隣にいたおっちゃんが『がんばれよぉー』と声をかけてくれたことだけ耳に残っている」
地元の文化グループと立ち上げた「7・9和歌山大空襲を語り継ぐ会」は、節目ごとに朗読劇や演劇、合唱をしてきた。戦後50年の1995年、空襲で焼失した番丁小学校の同級生に呼びかけ、24人の体験談を1冊にまとめた。
身体には、旧県庁跡で受けたやけどのあとが今も残っている。「あの日、748人が命を落としたあの場所で、何が起こり、どうして生き延びることができたのか」。これからの時代を生きる子どもたちへ特に伝えたい。「『平和を守る』と叫びながら反対の方向へ引っ張っていく大人もいる。戦争体験者や色んな年配者の話を聞き、何が真実か見極める力をつけてもらいたい」と切願する。
7月9日の講演会は午後6時半。平井さんによる体験談の後、演劇集団和歌山の朗読、うたごえ九条合唱団の合唱も。無料。同会(073・431・7317)。また、7月12日(日)午後3時、県民文化会館大ホールで、平井さんが所属する県第九合唱団が、平和への祈りを込め『レクイエム』を歌う。S席5500円、A席4500円、学生2000円。音楽愛好会フォルテ(同422・4225)。
写真=汀公園で炎の竜巻に耐えた場所を見つめる平井さん
水は命の恩人 内川をきれいにする会 原禎一さん(89)
内川の浄化運動に取り組む「内川をきれいにする会」会長の原禎一さん(89)は、通っていた長野高等工業学校(現信州大学工学部)からの帰省中に和歌山大空襲に遭った。火の海のなか、和歌川にかかる新町橋の下に逃げ込み、九死に一生を得た。「内川との縁を感じます」。戦後70年の節目となる今年、体験記を完成させた。「7月9日が何の日か知らない人が多くなってしまった。この日を忘れないで」と訴える。
9日昼、1週間の夏休みを終え、長野に戻る予定だったが列車が運休のため、三木町の自宅へ引き返した。空襲警報が鳴り響いたのはその日の夜だった。ドカン、ドカーンと数限りなく落ちる焼夷弾を避け、東和歌山駅(現JR和歌山駅)方面へ父親を自転車の後ろに乗せて逃げた。家からほど近い内川にかかる鍛冶橋を渡ろうとした瞬間、自転車がパンク。と同時にすぐ目の前に焼夷弾が落ちた。「パンクせず、車輪があと1回転していたら、直撃していた」。散った火の粉で服が燃え始め、偶然にもそばにあった防火用水を、頭からかぶった。
自転車を自宅へ置きに戻り、再び逃げようと出たが、辺りは火の海。渡るはずの鍛冶橋が燃えていた。逃げ道を失い、鉄製で焼けていなかった新町橋を渡ろうとした時、下から人の声がした。父親と逃げ込み、空襲が収まるまで恐怖に耐えた。橋の上や川面にも焼夷弾が降り注いだ。川沿いの住宅に製材所、ついには自分の家が炎にのまれるのを橋の下から見た。
内川をきれいにする会は、父の峯三郎さんが1967年に立ち上げた。跡を継いだ禎一さんも戦前、戦中、戦後と川の移り変わりを見てきた。「あの時、あまりの熱気で身体がほてり、川へ飛び込みました。今よりずっと美しく、ちゅうちょなく入った。水は命の恩人にほかならない」と話す。
戦後70年が経ち、戦争体験の風化に恐れを感じる。4年前に体験記を書き始め、記憶をたどり修正を重ねた。表題に『和歌山大空襲と内川』とつけ、会員や友人に配った。70年で記憶は徐々に薄れたが、毎年7月になると思い出す。「戦時中は資材がなく、水も自転車も鉛筆1本でさえ大切にした。偶然が重なり、私は命を救われたが、多くの人が亡くなり家族を失った。将来の子どもたちのことを考え、人の命や自然、物を大切にする気持ちを今、もう一度取り戻してほしい」と願う。
体験記希望者は同会(073・422・4156)。
和歌山市立博物館 「戦争と和歌山」展 和歌山市は7月9日、合同追悼式
展示「戦争と和歌山〜和歌山大空襲から70年」が7月9日(木)〜8月16日(日)、和歌山市湊本町の市立博物館1階玄関ホールで開かれる。戦後70年を迎え、改めて当時を振りかえるため企画した。
空襲時、和歌山中学の学生だった男性が、爆撃から逃れようとする人や街の姿を時間の経過に添い記した「和歌山大空襲体験絵巻」、兵に採用されるため少年が自らの血で記した嘆願書「血書」など当時を物語る貴重な資料約20点をそろえる。防空訓練用の本や空襲への注意を喚起するチラシなども並べる。また、空襲後の和歌山市(写真)や、遺骨の帰還風景、千人針を集める女性たちの姿などをとらえた写真約10点を展示する。
7月11日(土)午後1時半からは約20分の映画「和歌山大空襲」を上映。学芸員が「和歌山大空襲体験絵巻」について解説する。佐藤顕学芸員は「戦時下の資料を陳列し、当時の和歌山の様子を紹介します。改めて『戦争とは何か』を考えるきっかけにしてもらえれば」と話している。
無料(ただし常設展・特別展は有料)。午前9時〜午後5時。月曜休館。同館(073・423・0003)。
なお、同市は9日午前10時半から、同市小人町のあいあいセンターで「戦没者戦災死者合同追悼式」を開く。戦地で亡くなった市出身の戦没者は約8000人、和歌山大空襲による戦災死者は1400人。戦後70年を節目に、10年ぶりに市が主催する。
式では、伏虎中学校の生徒達による千羽鶴の奉納や語り部による当時の話、同中生による平和へのメッセージなどがある。申し込み不要。市高齢者・地域福祉課(同435・1063)。また、午前10時〜午後1時に同センターで、和歌山大空襲に関する写真パネルや戦中戦後の日用品などの展示がある。
写真=和歌山大空襲後の本町。右奥に丸正が焼け残っている
(ニュース和歌山2015年7月4日号掲載)