終戦から70年目を迎えた8月15日。戦争の記憶が薄れる一方、国会で連日、安全保障について激しい議論が交わされる中、国内で、満州で、玉音放送を耳にした2人の戦争体験者に当時のこと、そして今改めて思うことを聞いた。
終わらなかった戦争 和歌山市西小二里 與畑(よばた)常雄さん(91)
70年前の8月15日、航空機の整備兵として赴任していた満州(現在の中国東北部)の中心都市、ハルビンで玉音放送を聞きました。多くの日本人が「戦争は終わった」と思いましたが、私はその後、ソビエト連邦軍によってシベリアへ連行され、1948年9月11日の帰国まで終戦を迎えたという実感はありませんでした。
紀美野町の小川尋常高等小学校を卒業し、大阪の飛行機部品工場で働きました。19歳で徴兵検査を受け、松江航空隊を経て、満州へ。日ソ中立条約でソ連が攻めてくるとは思ってもいませんでした。
45年8月初旬、ソ連侵攻が始まり、基地があったチャムスという街からハルビンへ移動。日本がポツダム宣言を受諾すると、現地の人たちは皆、共産主義を示す真っ赤な腕章をつけるようになりました。その後、ソ連軍の立ち会いで武装解除し、列車に乗せられました。私たちはナホトカから帰国できるものだと思っていましたが、荷物を没収され、支給された服装で統一されると、帰国は叶わないと悟りました。
11月、イズベストコーワヤへ到着。間もなく冬が訪れ、収容所を移るため、1日歩かされた時に両足の親指が凍傷になりました。壊死した指をペンチで切断された痛さを忘れることはありません。昼食はたった1枚の食パンで、服の内ポケットへ入れても凍りました。そんな場所で3年間、木の伐採や農作業に従事し、寒さと空腹に耐えました。
帰国の日、船の甲板から日本が見えた時は、言葉にできないくらいのうれしさに皆涙しました。上陸後、国から支給されたお金で、東和歌山駅前の闇市でたらふく食べて実家へ。野上電鉄を降りた時、父が1人で待っていました。家に帰ると巻き寿司がたくさんあり、申し訳なさと、親のありがたみを感じました。
15年前に戦争中のケガや病気で身体が不自由になった人を支援する相談員を始めました。50人以上の話を聞き、行政の支援制度を紹介しています。失明した人、片方の腕や足を無くした人など様々で、当然、戦時中敵対した相手側にも同じような人がいるはずです。戦争に勝者はいません。心や体に負った傷が癒えず、戦争を背負って生きている人がいる限り、活動を続けていきたいと思います。
最後まで敗戦思わず 和歌山市田野 坂口邦三さん(91)
1943年10月21日、雨の中、明治神宮外苑で出陣学徒壮行会がありました。当時20歳以上の学生の兵役免除が解かれ、文科系大学生は20歳で徴兵検査を受けねばなりませんでした。早稲田の学生だった私は翌年、20歳で陸軍特別幹部候補生へ応募しました。兵隊は男の使命、死ぬなら将校で死にたいと親に内緒でした。
前橋陸軍予備士官学校を45年6月に卒業し、見習い士官(曹長)として千葉佐倉六十四連隊に配属。大隊長から「三男坊か。いつ死んでもいいな」とすぐ東部三百二十一連隊に転属され、第二小隊長として50人の部下を抱えました。国のために死ぬ覚悟ができていましたから、目的を果たした思いでした。部下には実戦経験者もいて、我々見習い士官を甘くみましたが、私は部下を絶対に殴らず、時間があれば相撲をとって遊ぶなど結構、楽しく過ごしましたよ。
その後、広島に配属され、私の第三大隊だけ8月4日に鳥取の米子へ移りました。そして6日。将校が集められ、「広島に強力な爆弾が落ちた」「大被害を受けた」と報告がありました。広島へ残った部隊は大変だったようですが、それでも負けるとは思いませんでした。
米子では、小隊50人で、大山中腹に海から上陸する米軍を討つ奇襲攻撃用の壕(ごう)掘りにあたり、8月15日を迎えました。小学校の講堂に集められた時、ソ連の宣戦布告か、またいよいよ自分たちは満州へ行くのか、と想像しました。玉音放送は雑音が激しく聞き取れなかったのですが、「これで終わったのか」と思いました。部下は「腹一杯めしが食える」と喜んでいました。世間も軍隊にもどこか厭戦(えんせん)気分が広がり、ほっとしている人が多かったです。
当時から今の日本を思うと、私は「平和ボケ」を感じます。今いろいろと議論がありますが、自分の国は自分で守る。その基本に立ち返って考える必要があるのではないでしょうか。
写真 この記事下=「これでもう最後」との思いで、墓参りに帰省した当時の坂口さん(右)
(ニュース和歌山2015年8月15日号掲載)