和歌山と大阪の府県境にある孝子峠周辺で太平洋戦争末期に自らが掘った軍用トンネルを探す和歌山市の野村晴一さん(90)が8月27日、同市梅原の戦争遺構を訪ねた。本紙8月13日号で情報提供を求め、同地区で少年時代を過ごした貴志丈一さん(78)が案内。施設の使用目的は定かではないが、軍事施設の一つとみられ、野村さんは「見た瞬間、戦友が掘ったものだと確信しました。戦争の記憶を伝える教材として、後世に残したい」と保存を望んでいる。
野村さんは戦争末期、和歌山に上陸した米軍の大阪侵攻を食い止めるために組織された護阪部隊に所属。地上戦を想定した陣地構築の命を受け、貴志小学校を拠点に日夜、トンネル掘りに明け暮れた。1945年7月7日に、複数掘っていたトンネルの1つが貫通したと聞いた。その2日後の和歌山大空襲で現場を離れ、終戦を迎えた。
トンネル探しは6年前に始めた。しかし、周辺は住宅地の造成が進み、見つけられなかった。これを本紙で伝えたところ、空襲の際に同地区の山に逃げ込んだ貴志さんが防空壕として避難した穴があったことを思い出し、野村さんに連絡した。
確認した遺構は、同地区の大年神社北側にある山の中腹で、神社から徒歩約30分。南向きの急斜面にコンクリートで固められた入口が見つかった。野村さんは「当時のコンクリートは紀の川の砂を集めて作ったと聞きます。鉄筋の代わりに木が見えますね」と感慨深そうに見つめ、貴志さんは「家族で防空壕として避難した記憶がよみがえりました。今はだいぶ土で埋まっていますが、当時は大人が立って歩けるくらいの広さがありました」と振り返っていた。
写真=貴志さん(左)の案内で戦争遺構を訪れた野村さん(右)
(ニュース和歌山2016年9月3日号掲載)