7月23日開幕の東京五輪までちょうど半年。新型コロナウイルスの影響で1年延期され、ウイルス収束が見通せず、今夏の開催を危ぶむ声ももれ聞こえる。出場を決めている、あるいは出場を目指す選手にとって重苦しい日々が続くが、41年前、モスクワ五輪出場権を獲得しながら、日本がボイコットしたため、出られなかった選手が和歌山にいる。射撃競技の勢見月文久さん(71)だ。

射撃競技 勢見月文久さん 「前向きに、目標見定め努力を」

 「えっ? ほんまに決まったんか…?」。モスクワ五輪開幕を2ヵ月後に控えた1980年5月、テレビのニュースで日本のボイコットを知った。夢舞台に立つ目標が断たれた。

 72年、県警察学校に入って始めた射撃競技。専門は的までの距離が10㍍のエアピストルで、翌年には県警拳銃特別訓練生に選ばれた。国体は77年に大会新記録で初優勝してからの4連覇を含む計8回の優勝を数える。その77年、警察庁の強化選手にも選出された。

 79年春、モスクワ五輪国内選考会に挑み、エアピストルに加え、50㍍先の的をねらうフリーピストルの2種目で出場権を獲得した。翌80年1月に開かれたアジア選手権も2種目で頂点に。しかも、エアピストルはアジア新記録をたたき出した。

 勢いそのままに、7月開幕のモスクワ五輪へ乗り込む…はずだった。しかし、日本はボイコットを決めた。「幸い、射撃は40代でも一線で活躍している人がいるぐらい、長くできる競技。当時、30歳だった私は次を見ることができた。しかし、モスクワが集大成との選手も少なくなかった。そんな選手はみんなやりきれず、涙していました」

 勢見月さん自身はすぐに視線を前に向けてさらに競技に打ち込み、五輪はロサンゼルス大会こそ逃したものの、88年のソウル、92年のバルセロナと連続出場を果たした。

 現役時代を振り返り、今も心に残っている言葉がある。モスクワ五輪を1年後に控えた79年夏、アメリカへメンタルトレーニングに行ったときのことだ。指導者はライフル競技の元五輪金メダリスト。的の中心が10点で、60発撃って競うライフルで、1発だけ10点を外し、599点で優勝を逃した経験を語ってくれた。「その先生に『なぜ1発外れたと思いますか?』と聞いた者がいたんですが、先生は『なぜ59発、10点に当てられたのかを聞いてくれ』と返しました。強い人の前向きな考え方は違うと感心しました」

 五輪だけでなく、また、スポーツ以外でも多くの晴れ舞台が失われたこの1年。若い世代に向け、こう続ける。「コロナがこの先どうなるか、今は分からないが、このままの状況が続けばこうしよう、収束すればこうしたいと目標を見定め、努力する。何かを目指して頑張ることは絶対にムダにならない。いかにポジティブにとらえるか。人生は長いですよ」

 勢見月さんが今抱く目標は、来年5月に関西で開かれる、中高年のための国際競技大会ワールドマスターズゲームズだ。

勢見月(せみづき)文久さん…1949年、新宮市生まれ。大学卒業後、和歌山県警に入り、射撃競技と出合う。五輪は88年のソウル、92年のバルセロナと2大会連続で2種目に出場。今年4月には東京五輪聖火ランナーとして県内を走る予定。

(ニュース和歌山/2021年1月23日更新)