〝和製大砲〟と期待され、阪神タイガースやオリックス・バファローズなどで活躍。一方で、ケガに泣かされることが多かった現役生活でした。引退後は阪神打撃コーチの後、2年前から和歌山ファイティングバーズ(現・和歌山ウェイブス)ゼネラルマネジャー(GM)として球団を支えています。大会を控えた球児にエールを送ります。
ケガをすれば、きっちり治す
「打倒智辯」掲げ南部高校に進学
── 南部高では、紀三井寺球場で大活躍しました。
当時、智辯和歌山の一強時代で、「打倒智辯」だけを考えており、「井戸大志監督の南部なら甲子園に行ける」と進学しました。高2の夏は初戦で智辯に勝ったものの、次の2回戦で敗退。3年の夏は準決勝で対戦し、まったく負ける気はしませんでした。でも、ヒットを打たれ、2つフォアボールを出して2アウト満塁となり、センター前にふらふら上がった打球がポトリと落ちて走者一掃。1─3で負けました。打ち込まれたのでなく、フォアボールで塁を埋めたことに悔いが残りました。
── 印象に残る試合は。
高3準々決勝の星林戦です。打順1番、ピッチャーで出場し、人生で一番いいピッチングができ、完封。さらに、吉見祐治投手から場外ホームランを打ちました。彼は東北福祉大から横浜ベイスターズに入団したので、プロで対戦できた時はうれしかったですね。ストレートで押してくるなど、互いに「負けたくない」との気持ちがありました。
人生が変わったサヨナラ3ラン
─ 高校から阪神に入団しました。
1年目から1軍を経験しましたが、結果が出ず、最初の4年間は2軍と行ったり来たり。初ホームランは2001年5月13日、甲子園の広島カープ戦で打った逆転サヨナラ3ランです。長打を期待されているのに打てなくて、この時に呪縛が解けたというか、ホッとしました。それからレギュラーに定着しましたから、まさに人生が変わった一本です。
── 翌年、田淵幸一さんが打撃コーチになりました。
下半身にためたパワーを上半身に伝える、いわゆる〝うねり打法〟を教えてもらいました。自分に合ってたんでしょう。打球の滞空時間が長くなって飛距離が伸び、18本のホームランを打てました。
── 優勝した2003年に右肩を脱臼します。
開幕から4番を任され、好調でした。しかし、5月に右肩を痛め、復帰した6月に脱臼してしまいました。日本シリーズでの復帰を目標にリハビリに励み、なんとか指名打者として出場できました。
実は、小学6年で肩を故障しているんです。痛みをこらえながら投げ続け、地元の大会は全部優勝。ただ、高校でもプロでも痛みはあり、脱臼した時、医師から「子どものころのケガの影響もあるでしょう」と言われました。「ケガをしたら、きっちり治す」のが第一です。
── ケガから復活し、06年は打率3割、ホームラン20本の好成績でした。
あの年は好調でしたが、翌年は故障と不振で、08年にオリックス移籍。11年にヤクルトで現役を終えました。複数球団を経験できたのは、大きな財産です。また、コーチ時代は、阪神の今岡真訪さんにコーチのあり方を教わりました。とにかく「選手を良く見る」こと。その上で、教えに行くのでなく、「聞かれた時、的確なアドバイスができるように」と言われたのが印象に残っています。
── ウェイブスGMとして、どんなことを?
スポンサー対応など球団運営をしています。試合で気になったことを話したりもしますが、でしゃばらないようにしています。
── 夏の大会を前に、球児にひと言。
「負けたら終わり」とプレッシャーがあるでしょう。それも含めて、投手も野手も一球一球を大切に、チームメイトと笑顔でプレーしてください。
濱中 治=1978年7月9日、田辺市生まれ。南部高校から97年に阪神タイガース入団。2001年に広島戦でサヨナラ3ランを放ち、レギュラー定着。一方で、03年に右肩脱臼、04年に2度の右肩手術。08年にオリックス、11年にヤクルトへ移籍し、同年引退。阪神コーチなどを経て、22年に和歌山ウェイブスGM就任。
(ニュース和歌山/2024年7月6日更新)